玄関のドアを開けた途端、風が涼しくてもう秋なんだなと思った。
スーパーまでの道のりをてくてくと歩く。夕方17時過ぎ、空は青く高く、雲は少しだけ夏の気配を残してぽっかりと浮かんでいる。
肌寒いくらいの澄んだ空気をエレンは胸いっぱいに吸い込む。吐き出す。目を細める。
今日は良い日だ。すべてが気持ち良くて、思わず鼻歌が出てしまいそうなくらい。
あの人と一緒にご飯を食べたいなあ。今日の晩ご飯を頭の中で組み立てながら、自然にそう考える。
そして思いついた。ああ、そうだ。鍋にしよう。少し肌寒い夜は、鍋の季節の始まりにぴったりだ。
そう決まれば、ますます気持ちは浮き立つ。あの人が好きなものをたくさん入れよう。きっと喜んでくれるだろう。
秋の始まりの道を歩きながら、彼の顔を思い浮かべてエレンは口元を綻ばせた。



ピンポーン、と一回チャイムが鳴る。
はーい、と返事をしてドアを開けると、案の定、隣に住むリヴァイが鞄を片手に立っていた。
『晩ご飯に鍋をつくりました。一緒に食べましょう』というエレンからのメールを受け取って、自分の部屋には寄らずに、そのままエレンの部屋に来たらしい。
おかえりなさい、とエレンが言うと、ああ、と返事をして上がり込む。
当たり前のようなそのやり取りが、少し嬉しい。靴を揃えながら、リヴァイが言う。

「……鍋の季節には、まだ早いんじゃねえのか」
「そんなことないですよ。今日寒かったでしょ。リヴァイさんの好きなしらたきもちゃんと買ってきましたよ」

鞄を受け取って、部屋の隅に置く。リヴァイは勝手知ったる我が家のように、洗面台で手洗いうがいをし、 リビングの座椅子に腰掛ける。エレンはローテーブルに鍋を置く。ランチョンマットを敷き、皿を並べる。箸を箸置きにきちんとのせる。
リヴァイと一緒にご飯を食べるようになってから、身に付いたことだ。

「リヴァイさんビール飲みます?」
「飲む」

冷えた缶ビールをそれぞれの前に置く。取り箸を鍋の横に置こうとすると、直箸でいいよ面倒くせぇ、とリヴァイが言う。
出会った最初の頃は、決してそんなこと言わなかった。その変化にまた少し、胸の奥がじんとする。
積み上げてきた関係。それをこんなときに実感するのだ。
プルタブを開けて、おつかれさん、と軽く缶をぶつける。
いただきます、ときちんと言って、鍋に箸をいれる。

「あのですねえ」

最初にきちんと自分の分のしらたきを確保しながら、エレンは口を開いた。

「なんだ」
「今日、夕方スーパーに買い物行ったんですけど」
「ああ」
「外がすっごく気持ちよくってですねえ」

ビールを流し込みながら、リヴァイが眉を上げて先を促す。
エレンは夕方の空気を思い出しながら、自然と優しい顔になる。

「風とか、空とか。全部が気持ちよくて。ああ、秋だなあ、って思って」
「……それで?」
「なんだかすごく嬉しい気分になって。それで、自然とリヴァイさんの顔が浮かんだんです」
「……」
「嬉しいときって、やっぱり好きな人を思い浮かべるんですねえ」

目の前に座るリヴァイは、どう反応して良いのか分からない、といったように眉根を寄せている。
それにくすりと笑って、エレンは続ける。

「外が気持ちよくて、リヴァイさんと一緒にご飯食べよう、って思って。スーパーでリヴァイさんが喜びそうな食材選んで。リヴァイさんが帰ってくるのを待ちながらご飯つくって。こうやって向かい合って、ビール飲みながら一緒に鍋つついて」

あ、これもらいますね、そう言って白菜を手元の椀に入れる。

「本当に、幸せだなあ、って思うんですよ」

白菜を口に運ぶ。出汁が染み込んで美味しい。
なに訳分かんねえこと言ってんだ、と呆れられるか、もしくはあっそ、と聞き流されるか。
そんな反応だろうな、と思って咀嚼しながら目の前の人に目を遣ると、
そのどちらでもなかった。
彼はビール片手に一瞬驚いたように目を丸くして、次の瞬間、ふっと目を細めて。伏し目がちに、でも穏やかにやわらかく、微笑んだ。そして、


「――そりゃよかった」


と言ったのだ。



「……リヴァイさん、キスしていいですか」

白菜を一気に飲み込んで、エレンは思わずそう零した。

「はあ?あほなこと言ってんな、この肉もらうぞ」
「だって、リヴァイさん、今の顔、」
「俺はいつもこんな顔だ」
「いやいや、でも、今の顔、すごく……」

はあ?ともう一度言ってリヴァイが下から睨みつけるので、エレンはその先の言葉を飲み込んだ。
リヴァイはちゃっかり肉を奪い、黙々と口に運んでいる。
それは確かに、少し目つきの悪い、初対面の人が見たら恐縮しそうないつもの顔だ。
でもさっきは。エレンは飲み込んだ言葉の先を心の内で繰り返す。

――すごく幸せそうな顔。

その意味を考えると、何だかいてもたっても居られなくて、顔がにやけるのを止められない。
大声で叫びだしたい気分だ。笑い声が漏れそうだ。
それに気づいたリヴァイは、ビールを一口飲むと眉根をぎゅっと寄せて呆れたような顔をした。

「何にやにやしてんだ、気持ちわりいぞエレン」
「なんでもないです、ちょっと嬉しくて」
「はあ?何がだよ」
「リヴァイさんとまた距離が縮まったなーって」

リヴァイは変なものを見るような目つきでエレンを見ると、諦めたように首を振った。
そして、肉としらたきもらうぞ、いいな、と言って、エレンが答える前に容赦なく具材を奪っていく。
どうぞどうぞ、肉でもしらたきでも白菜でも何でもどうぞ。
黙々と、でも確かに美味しそうに肉を口に運ぶリヴァイを見て、エレンはますます嬉しくなる。

「ねえリヴァイさん、今夜リヴァイさん家に泊まっても良い?」
「……勝手にしろ」

その返答に、とうとうこらえきれずにふふふ、と笑い声が漏れる。
おい、本当に気持ち悪いからやめろ、とリヴァイが言っても笑い出すのを止められない。

「俺幸せです。リヴァイさん」

こんなに幸せな夜があっても良いのか、と思うほど。
エレンが満面の笑みでリヴァイにそう言うと、リヴァイは観念したようにため息を吐いて、

「……俺もだよ」

と呟いた。そして今度こそキスする為に、エレンは笑いながら彼の頬に手を伸ばす。
絶対にはなさない。唇が触れ合う直前、自然に、でも確かにそう思った。




あの日の言葉をいま云うよ