遠くの方で音が聞こえる。
誰かが呼んでいる?急き立てられるようにエレンは走る。
どこを目指しているんだろう、どうしてこんなに苦しいんだろう?

ピピピ……

隣に誰か居るような気がした。
なんだか懐かしいような、そんな感覚。隣にいるその人がエレンに話しかける。
何かを訊かれた。

――………か?

自分は何と答えたか。よく分からない。
意識は曖昧な渦の中をゆっくりと漂って、浮上して、

ピピピ…ピピピピ……


ぱちり。目を開けた。


一瞬、夢か現実か分からなくなる。
鳴り続けるアラーム。反射的に携帯を掴む。
ボタンを押して画面を見ると、

――8:28。

一瞬、時が止まったような気がして、

「やっべ遅刻!!」

一人で叫んで飛び起きた。





顔を洗って歯を磨いて大急ぎで服を着替えて鞄を掴んで玄関から飛び出す。
壁に立てかけていた数本の傘が盛大に倒れたが、直す余裕もなかった。

現在時刻8:32。大学の1限目の始業時刻は8:45だ。

(くそ、やっぱ自転車買っとけばよかった……!)

アパートから大学までは、徒歩20分程かかる。そんなに遠い距離でもないし、幸い最寄りのスーパーまでも10分程で行ける。
歩きで生活できるし、必要に迫られたら買うか、とのんきに考えていた。今はそんな自分を全力で罵倒したい気分だ。

今日の1限は語学で、出欠に厳しい教授で有名だった。1分遅刻をしただけで欠席扱いになる。そして3回欠席したら単位は不可。
今後研究室を選ぶときに、1・2年時の成績は重要だ。成績『優』を取るためにも、1度の欠席もしたくなかった。

走る、走る。
必死で階段を駆け下り、アパート前の駐車場を横切り、道路に出ようかという時だった。

「おい、」

呼びかけられた声にエレンが反射的に立ち止まって振り向くと、隣に住んでいる人が車の側に立っていた。名前は知らない。
朝や夜に時々顔を合わせるので、挨拶を交わすくらいの関係だ。
すこぶる目つきが悪いので、初めは怖い印象を持っていたが、挨拶はきちんと返してくれるので、実はいい人なのかなと勝手に思っていた。
ただ、今は、時間がない。

「え、あ、おはようございます、えっとすみません、俺急いでて」
「そこのN大学か」
「え?」
「そこのN大学か?」
「え、あ、そうです、えっと1限が」
「送ってやる、乗れ」
「へ?」
「早く乗れ!」

えええ、と混乱した頭で考える。隣に住むその人はさっさと運転席に乗り込んでいる。
半分慌てたまま状況を整理する。とりあえず大学まで送ってくれるらしい、走るより車の方がそりゃ速い。
今のエレンにはそれだけ分かれば十分だった。

「お、お願いします!」

そう叫んでエレンは助手席に飛び乗った。



静かな車内で息を落ち着かせると、途端に自分の行為がすごく図々しい気がしてきた。
車はエンジン音がほとんどしない、最近良く売れているものだ。ラジオから静かに朝の情報番組が流れている。
車内にはゴミひとつ落ちていない。物もほとんど置かれていない。
今まで人の車に何度か乗ったが、その中でも一番きれいな車だと思う。

運転席の人をそっと伺う。彼はアパートで会うときのいつもの目つきで、じっと前を見つめている。

「あの、ありがとうございます、何かすみません」

何か話さないといけない気がして、エレンは口を開いた。

「……別に。会社までの通り道だからついでだ」
「そうなんですか」
「俺から声をかけたんだから気にしなくて良い」
「あの、よく分かりましたね、N大学だって」

そう言うと彼はちらりとエレンを見て、
「こんな時間に私服で慌てて走ってるなんて大学生くらいのもんだろ、近くにN大学あるんだし」
とそっけなく答えた。
時計を見ると現在時刻8:34。あと10分程で授業が始まる。
そわそわしているエレンに気付いたように、運転席の彼は言う。

「大丈夫だ、5分で着く。授業はどこでやるんだ、A館か」
「あ、そうです」
「ならその裏につけてやる、安心しろ」
「あ、はい、ありがとう、ございます……」

やけに大学に詳しい。もしかするとOBなのかもしれない。
聞いてみたいな、と思ったけれど、何となくまだ個人的な事を聞き辛くて、じっと黙ったままでいた。
自分でも気付かなかったが、少し緊張しているらしい。普段はあまり人見知りをしないのに。
ぱちり、ぱちりと、無意味に時計をつけ外ししてしまう。

「……大学はどうだ」

そんなエレンを気遣ったのか、彼が話しかけてきた。

「えっと、楽しいです。俺、別の地方から出てきたんですけど、知り合いもできたし」
「そうか」
「はい。あんまり期待してなかったですけど、教養の授業も結構面白いです」
「サークルは?何かやってるのか」
「あ、剣道部です。この前入部しました。中学からずっとやってて。大学でも続けようと思って」

エレンがそう答えると、彼はちらりと横目でエレンを見て、「そうか」と返した。
また少し沈黙になる。ボリュームを絞ったラジオから、落ち着いた女性パーソナリティの声が聞こえてくる。

「……親御さんは?実家にいるのか」
「え?ああ、そうですね。幸いなことに両親含め、一家全員元気です」

じいちゃんばあちゃんも皆ぴんぴんしてます、と言うと、彼はふっと笑って、また「そうか」と答える。

不思議な感じだ。名前も知らない隣の人と、こうして朝、車に乗っているなんて。
そして何だか、嫌じゃない。少しつっけんどんな話し方に、最初は怒っているのかと思ったが、元々こういう話し方なんだと分かる。
やっぱりいい人だったな。そう思う。アパートでの印象は間違ってなかった。
緊張も少しほぐれて、もっと話しかけてみようかな、そう思った矢先だった。

「ほれ着いたぞ」

キッと音を立てて車が止まった。
それを聞いて、少しだけ残念だなと思う。口には出さなかったけれど。
時刻は8:39。A館はすぐ目の前で、今から行けば歩いても十分間に合う。

「ありがとうございました、助かりました」
「はよ行け、遅れるぞ」
「あっはい、本当ありがとうございました」

エレンはドアを閉めて走り出そうとしたが、ふと思いとどまって車を振り向く。
それに気付いた彼が助手席の窓を開けてくれた。

「あの!名前、教えてください」
「あ?」
「名前。俺はエレンです。エレン・イェーガー」

そう言って見つめると、彼は一瞬迷う素振りを見せたが、すぐに答えてくれた。

「……リヴァイだ。そう呼んでくれればいい」

リヴァイさん、とその名前を口の中で繰り返す。リヴァイさん、リヴァイさん。
少し目つきが悪いけど、いい人だ。そしてもっと話したい人。
これで決して忘れないだろう。

「ありがとうございましたリヴァイさん、今度お礼させてください」

じゃあ、と頭を下げて行こうとするエレンに、

「エレン」

と声がかけられた。振り向く。

「なんですかリヴァイさん」

覚えたての名前を呼ぶ。リヴァイは少しだけエレンをじっと見上げていたが、やがて目をふっと細めて、

「大学、楽しめよ」

と、そう言った。

「……はい!」

そう叫んで今度こそ走り出す。周りには1限に向かう学生達がぞろぞろと歩いている。
4月の気温に、緑は若々しい。エレンは今朝寝坊したことも忘れて、すっかり良い気分になっていた。
また話せたらいいな、と走りながら思う。どうやったらお礼ができるかな、と考える。

「しゃ!」

一人叫んで、エレンは4月の風を吸い込んだ。



あなたまでループ〜はじまり02