いつからだろう。この日が、こんなにひどく気になるようになったのは。
右手の中、携帯電話の画面に目を落とす。「新規作成」のメール画面には、まだ一文字も打たれていない。
5月の日差しの下、少し見辛い液晶画面に目をこらして親指を動かす。
――“たんじょうび”、
打って、変換して、またすぐに文字を消した。

「おにーちゃーん」

呼びかける声に顔を上げると、アルカが手を大きく振っているのが見えた。太陽の光を背にして、こちらに駆け寄ってくる。
キルアとアルカが来ているこの公園は、今日明日と大規模なフリーマーケットをやっているらしい。
朝、通りがかりにそれを知ったアルカが、「見たい!」と叫んだ。そこでもうその日の予定は決定だ。
キルアも最初はアルカに付いて店を廻っていたが、女性の買い物についていくのはひどく疲れる。
それは妹であっても例外ではなく、キルアは途中で脱落し、噴水の端に腰掛けて、アルカが戻ってくるのを待っていたのだった。

近づいてくる妹の姿に目を細める。きらきらとかがやく。
アルカはキルアの元まで辿り着くと、おにいちゃん、と嬉しそうにもう一度呼んだ。
その笑顔に微笑んで、キルアはアルカの頭に左手をのせる。よしよし、と撫でるように。
熱を吸収しやすい黒髪は、触れるとじわりとあたたかかった。

「何かいいのあったか?」
「うん、見てみてこれ!すごい可愛いから買っちゃった!」

そう言って、アルカはうさぎのマスコットが付いたキーホルダーを目の前に差し出した。
10センチほどのそのマスコットは、手作りらしく器用に細い糸で編んでいるようだ。
カラフルな糸で編まれたうさぎ。くりくりとした黒いビーズの目が、きらりと光った。

瞬間、ふっと思い出す。黒い瞳。数年前まで一緒にいた、友人の色。

「おにーちゃん?」

呼ばれてすぐに我にかえった。
妹が不思議そうに自分の顔を覗き込んでいる。
ビーズの瞳から目を離す。妹を安心させるように、にこりと微笑む。そして言った。

「なんでもない、これ可愛いな、アルカにぴったりだよ」
「本当?これバッグにつける!つけて!」

アルカがキルアの手にキーホルダーを差し出す。
と、その視線がキルアの右手に注がれた。
握ったままの携帯電話。

「あれ?おにいちゃん、電話?いいの?」
「……ううん。いいんだ、なんでもないよ」

そう言ってキルアは携帯をポケットに閉まった。アルカが差し出すキーホルダーを手に取る。
心にわきあがってくるものは、ぐい、と奥におしやった。



――おやすみ、おにいちゃん。
――ああ、おやすみ。

昼間に散々歩き回ったアルカは、疲れが溜まっていたらしく、ベッドに入るとすぐ眠ってしまった。
すうすうと静かな寝息が響く。その横でキルアは、ベッドに寝転んで真っ暗な天井を見つめていた。
いつからだろう。この日が、こんなにひどく気になるようになったのは。
無意識に携帯を取り出し、画面を開く。攻撃的に目に飛び込んでくる液晶の光に目を細める。
アルカを起こしてしまわないように、布団を引っ張り上げて携帯を覆う。

『5/5 23:50』

あと10分で日付が変わる。携帯のデジタル秒針は刻々と動いていく。
いつからだろう。いつからこんなに、うまくできなくなったのだろう。
のろのろと親指を操作して、メールの作成画面を開く。

――“誕生日、おめでとう。”

そう打って、その先をどうすればいいのか分からなくて、もう一度文字を全部消す。
何回も、その作業を繰り返している。

お互いが分かれた最初の頃は、訪れている場所の写真をよく送り合った。
最初は毎週のように送っていた。それが月に1回となり、2ヶ月に1回となり、半年に1回となって。
今ではもうほとんど連絡は取っていない。
気まずいわけでも何でもない。でも確実に、そう確実に、二人一緒にいた頃の記憶は、過去のものになっていく。
目を逸らしているわけでもない。
でも、でも、あんなに色鮮やかな記憶を。
いったい、どう扱ったらいいのだろう。

――“たんじょうび、”

一緒に居た頃はそれをほとんど意識していなかった。でも忘れてしまうということもなくて、
当日のふとした瞬間に思い出して、何らかの形でお祝いをした。
お互いが分かれた最初の頃も、特に気負うことなく、お互いメールを送り合った。
本当に、いつから。

『5/5 23:58』

日付が変わる前に送らないと。そう、分かってはいるのだけれど。

――“誕生日、おめでとう。”

今どこにいる、とか。死んでないか、とか。今は何を追い求めてるんだ、とか。気になることはたくさんあって、
でもいつも聞けないままだ。

『5/5 23:59』

ポチ、と親指で送信ボタンを押した。一行だけの簡潔なメール。
『送信完了』の表示を確認して、ぱくりと携帯を閉じる。
部屋に闇が戻ってくる。

明日はどこへ行こうか。そういえば、アルカがフリーマーケットに来る大道芸を見たいと言っていた。
未来は果てしない。きっとどこまででも行ける。自分なら。自分とアルカの二人なら。
目を閉じる。途端に瞼の裏に光の残像がうつって、もう一度、固く、固く目を閉じた。



想い出が手をのばす