カンカンカン、と音がする。振り向かなくても、それが誰なのか分かったから、キルアは動かないでいた。雲ひとつない青空、ひときわ強い北西風。冬の空気。
カン、階段の最後の一段。やっぱりここにいた、と声がした。
「キルアー」
「んー?」
手すりにもたれかかったまま、返事をする。気のない声だな、と自分でも思う。
「んー?じゃないよ。何さぼってんの」
「今更だろ。てかお前もだろ、こんな時間にここ来てんだから」
「オレはキルアを連れ戻す役目を仰せ付かったんですー。出席日数やばいよ、卒業できないよ」
「あーそーいえばそんなこと聞いたような気もする」
「あのね……」
隣に並ぶ。そこでやっとキルアはゴンの顔を見た。風つよ、そう呟いて大きく伸びをする彼は、オレが行きます、そう自分から言い出したに違いなかった。
なんとまあ、気持ちのよさそうな顔。
「キルアさー」
「なに?」
「留学するんだってね」
「連れ戻す役目を仰せ付かったんじゃねえの?」
「ねえ、そうなの?」
「……誰から聞いた?」
「さっき先生がぽろっと」
「ああそう……」
別段隠そうとしていた訳ではなかったけれど、あえて言わなかったのは事実だ。今だって詳しく説明するつもりはなくて、キルアはただ黙ったまま前を向く。何言われっかな、怒るかな。そんなことを考えながら。誰もいないグラウンド、昼下がりの街、遠い遠い、どこかの山。そっと小さな息をはく。途端、飛ばされそうな風。
「いつから決めてたの」
「いつだろ……10月とか、多分そのへん」
「ふうん」
「うん」
そのまましばらく二人とも喋らなかった。途中、赤い電車が音をたてて街を横切っていった。
どうして留学を選んだのか、キルアは今もうまく説明できない。ゴンと離れたかったのか、と言われたら、多分首を横に振るだろう。ただ、ずっとこのままではいられないだろうな、とは思っていた。そしてあるとき、世界って広いんだな、と、ふと、本当にふっと、思ってしまった。ちょうど今日の風のように、自分の中をざっと通り抜けていくものがあった。
次の日には担任に言った。衝動的に。ずっと白紙のまま提出し続けてきた進路調査票に、遠い国の名前を書いた。
ゴンにはずっと言わないままで。
「なんか悔しい」
「なんで」
「オレの知らないところで、キルアが、オレから離れようとしてたのが」
「……そういうわけじゃないよ」
「分かってるよ、でも、そうなんだよ」
でも、そうなんだよ。そうなんだろう。ゴンが言うなら、そうなんだろう。
気付けば、キルアの右手と、ゴンの左手が、少しの空間をあけて、すぐそばにあった。
触れたい、と思って、触れて欲しい、と思って、でもその空間は決して埋まらずに、ただ、ぎゅっと目をつむる。無邪気に触れ合える時間はもう、過ぎた。過ぎてしまった。
そっと目を開く。風が、身体を洗っていく。
「元気でね」
「まだ早ぇよ」
「そうだね、」
そこで初めて、ゴンは声をたてて笑った。
「そろそろ戻ろうか」
向けられたゴンの背中に、手を伸ばそうかと思って、でも一瞬のうちに、キルアはゴンの前にたつ。寒いな、今更のように思った。ゴンにもそう言ったら、当たり前だよ、と返された。当たり前だよ。
その言葉が、何だか無性におかしくて、切なくて、思わずキルアは笑ってしまった。笑い出したら止まらなかった。涙がでた。
突然笑い出したキルアに、ゴンは一瞬むっとしたけれど、キルアが珍しく心底笑うものだから、つられて思わず笑ってしまう。もう、何笑ってんのさ!そうやって、自分も笑いながら。
笑って笑って、昔みたいに、肩を組んで。そして、いつものように走り出す。
ひときわ強い風がふいた。
さよならにはすこしはやい日に/配布元:Ultramarine/∞=