キルアは玄関のドアを開けた。長かった仕事がようやく終わって、物置同然のアパートに久しぶりに帰ってきたのだった。
あと30分もすれば日付も変わる。開いた隙間の向こうは真っ暗だ。
中に一歩足を踏み入れると、こもった空気がおしよせて軽く眉をひそめる。ああ窓開けなきゃな、そう思いながらも、キルアはずるずると玄関に座り込んだ。なにしろ疲れ果てていた。

「つかれたー……」

無意味な呟きは瞬く間に闇にとけた。身体的なものもあったが、精神的な疲れの方が大きかった。
深いため息をつく。
ゴンとはずいぶん顔を合わせていない。二人別々の仕事が入っていたのだ。基本的に各自の仕事に口出しはしないから、いつ終わるのかも訊いていない。
重い身体をひきずって、風呂場のドアを開ける。正直言ってすぐにもベッドに沈み込みたかったけれど、シャワーを浴びないまま寝て、翌朝まで疲れをひきずるのは目に見えていた。
暗闇の中、コックをひねってお湯を頭からかぶる。少し生き返る心地がする。適当に洗って、埃っぽいタオルで身体を拭く。乱暴に髪を乾かす。
裸のまま寝室に向かう。気だるい。ドアを開けた途端ベッドが目に飛び込んできて、ああ駄目だと思いながらもキルアはその上に倒れ込んだ。舞い上がる埃。全身にかかる重力。
あと少し、身体を起こして手をのばせばクローゼットに手が届く。けれど重力に抗えなくて、キルアは冷たいシーツにすべてを預けた。シャワーで火照った素肌にその冷たさが心地良い。同時に、少しだけ淋しい。
キルアは目を閉じた。意識は瞬く間におちていった。


ガチャリ、と鍵が開く音で目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるか分からなくなる。数回瞬きをして、アパートに帰ってきたことを思い出す。続いて目を覚ました原因を思い出し、全身を緊張させる。

「ただいまー……」

声がした。しばらく聴いていなかったはずのその声は、馴染みすぎて懐かしみも何もなかった。
けれどその声とともに緊張が一気に弛緩するのが自分でも分かった。

「あれ、キルア帰ってる?キルアー」

足音が寝室に近づいてくる。キルアは返事をしなかった。なにしろ疲れていたのだ。ドクン、ドクン、ドクン。けれど心臓は勝手に鼓動をはやめる。キルアは目を閉じた。つかれたー、とつぶやく声。 ドクン、ドクン、ドクン。
かちゃり、とドアが開いた。

「キルア?」

ドクン。
ひときわ大きく心臓が鳴った。

「寝てる……なんではだか?風邪ひくよ全く……」

オレにはうるさく言うくせに、とぶつぶつ独り言がきこえる。キルアは目を開けなかった。声も出さなかった。狸寝入りを意図したわけではないけれど、結果としてはそうなった。疲れていたのだ。
ぎしり、とベッドが大きく揺れる。ゴンが隣に横たわるのが分かる。心地よい気配。

「キルアー……」

不意にかき抱かれた。一瞬、息がとまった。
ゴンの首筋に顔をうずめる格好になる。汗の匂いがした。
シャワー浴びろよ、疲れとれねえぞ、そんなことを思ったけれど、声には出さない。出せない。
ゆっくりと、息をする。ああゴンだ、ゴンだ、ゴンだ。そう思って、息をする。

「キルア、キルア、キルア……」

何回も名前を呼ばれる。少し身体を離されて、顔中にキスを落とされる。頬をなでられて、髪をとかれて、キルア、ともう一度呼ばれて、くちびるを塞がれる。
目は開けられない。声も出せない。
甘くしびれていく。

「キルア、キルア、きるあ……すき」

すき、すき、すき。
狂ったようにゴンは繰り返す。
普段なら絶対にこんなことしないくせに、そう思いながらキルアはゴンの告白を全身で受け取る。きっと疲れているのだ、と思う。ゴンも疲れているから、だから。
いつも一方的で。オレの言葉なんて本当は聞いていないくせに。こういうときだけ。
きつく抱きしめられる。すき、きるあ、すき。いつもより少し幼い声。ぎゅう、と胸の奥が締め付けられる錯覚。
しばらくして、つたない告白は静かな寝息となる。

キルアは目を開けようとして、再び閉じた。早く寝よう、と思った。疲れているのだ。早く寝ないと、早く。寝てしまえばきっと、目のふちにたまるこの涙もひくだろう。
全身はゴンに捕らえられている。逃げる気はさらさらなかった。捕まえていてくれるなら。
ただ、唯一動く右手を、ゆっくりと持ち上げる。ゴンのTシャツに指先が触れる。
その裾を、キルアは、ぎゅっと握り締めた。それが精一杯の声だった。



ひとさじの愛をください/配布元:alkalism