かすかに流れる小川の水音に、キルアはゆっくりと目を開けた。視界に見えたのは、日だまりのフローリングに投げ出された自分の腕。緩慢に指を動かす。浅い眠りに落ちていた。ひどく穏やかな夢を見ていた。
天井を見上げる。吹き抜けのリビングのそれは高い。その天井まで届きそうな大きな窓からさんさんと太陽の光が差しこんで、キルアとリビングをやさしく照らし出している。
キルアは再び目を閉じた。耳の底で、階段を降りてくる足音を聞いた。

「キルア」
「……」
「キルアってばー」

その声の主が顔をのぞきこむのが、気配で分かる。キルア、と何度も呼ぶその声はキルアの耳におだやかに馴染む。
その声だけを、受け入れている。

「……なんだよ」
「お昼どうする?」
「何でも良い。ゴンの好きなのでいいよ」
「最近キルアそればっかり」

キルアはゆっくりと腕をもちあげる。目を開けなくてもゴンの位置は手に取るように分かる。その頬に手をあてると、自分よりも高い体温がその手を包み返した。

「キルア?」

んー、とだけ呟く。まるでむずかるように。ゴンが苦笑するのが分かった。

「じゃあお昼買ってくるから、ね」

するりと抜ける体温。キルアは腕をぱたりと床に下ろした。ぺたぺたとフローリングを踏む足音。それからかちゃりとドアの閉まる音がして、キルアは浅く息を吐いた。静寂が戻ってくる。
ここはひどく眠りを誘われる。脳がゆっくりと溶けていくような。ほとんど何も考えないまま、キルアは浅くつなぎとめていた意識をふたたび手放す。



この家を見つけたのはキルアだった。遺跡調査のために来ていた田舎。いつもならすぐ通りすぎてしまいそうな一軒の貸家に、キルアが歩みを止めたのがきっかけだった。
白い家だった。集落からぽつんと離れてひとつだけ建っていた。田舎の風景に似合わない程度にはモダンで、でもどこか垢抜けない感じだった。日当たりのいい庭には雑草と、名前も知らない花が咲いていて、近くの小川からちろちろと水の音が流れていた。
滞在中、キルアがふらりといなくなったと思ったら、大抵この家の前にいた。何をするわけでもなく、ただぼんやりと。それこそ魂がぬかれたように。
まずキルアが何かに対して執着を見せることが珍しかった。いつでも彼は淡白だった、まるでいつでも切り捨てられるように。だからゴンは言ったのだ、ここ、借りようか、と。幸い家賃は破格の安さだった。キルアが数少なく望んだものくらい、与えてやりたかった。
ほんの一瞬。キルアの、泣き出しそうにくしゃけた顔を、ゴンは忘れないだろう、と思う。

香ばしい匂いを漂わせるクロワッサンやらカレーパンやらを抱えて玄関のドアを開けると、キルアはゴンが出かけたときと全く変わらない状態だった。太陽の差し込む吹き抜けのリビングは、さながら光のステージだ。その中央に、キルアは横たわっている。きらきらときらめく銀髪。まるで映画のワンシーンのような。
この家の前の持ち主だった、若い夫婦の話を思い出した。都会からいきなりこの田舎町にやってきて、あっけなくこの家で心中した。リビングに二人、横たわっていたそうだ。微笑みながら。
きっとそれは、こんな陽射しの暖かい春の日だったんだろうと思う。

「キルア」

名前を呼びながら、ゴンはステージに歩みを進めた。目を閉じているキルアは、ともすれば本当に死んでしまっているように見えた。キルアの色素はとても薄い。儚すぎる、とゴンは時々思う。
横に座って顔をのぞきこむ。キルア、ともう一度呼ぶと、彼はうっすらとまぶたを開いた。

「――ゴン」
「パン買ってきたよ、食べよ」
「うん、食べる……」

このところ、キルアは眠ってばかりいる。遺跡調査も終わり、次の仕事もまだ入っていない。だから支障はないのだけれど。
借りようか、といったときのキルアの顔を脳裏に描く。キルアが欲しがっているもの。
返事に反して、キルアはちっとも動こうとしなかった。とろとろとゴンに視線を合わせたあと、再びまぶたを下ろしてしまう。ゴンは諦めて立ちあがった。



階段を上る音がする。おそらく毛布を取りにいったのだろう。たゆたう意識の中で、キルアは考える。きしり、きしりと階段がきしむ。キルアはこの音が好きだった。ゴンとの生活を実感できる音。
ふわり、と毛布がかけられる。あたたかい。ゴンが隣で横たわるのが分かる。キルア、と耳元で囁く声。好きだ、と思う。どうしようもなく、好きだ、と思って、うん、とだけ返す。
額に指先がふれて、髪をとかれる。そのやさしい指先を、全神経を集中させて感じ取る。体温の高い指が頬に下りて、首のラインをなぞっていく。
太陽はまぶしく二人を照らし出す。キルア、ともう一度囁かれて、目許に軽いキスを落とされる。

幸せだ、と思って、キルアはすぐにそれを打ち消した。そう思ってはいけない気がした。心から幸せを感じるなんて、自分には許されていないと思って、でも本当は、失うことが怖かった。
目をぎゅっと瞑ると、キルア、と囁く声がする。何度も呼んでくれるその声が、そのひとが。欲しかった。ずっとずっと欲しかった。

「キルア」
「――ん?」
「幸せだね」

ああけれどいつだって、彼はキルアの先にいるのだ。
うっすらと目を開くと、淡く微笑むゴンがいた。いつだってキルアが欲しいものをくれるそのひとは、でもきっとキルアのものにはならなくて、だからこの家を借りた。つなぎとめておきたかった。この家でほんの少しだけ、キルアとゴンだけの完結した生活を。ひとときの夢を。
夢でいいと思っていた。

「キルア?」

でもその声はいつだって、キルアの名前を呼んでくれるから。
だからキルアは、

「――うん」

と頷くしかないのだ。

ふふっ、とゴンが笑ってキルアを胸に引き寄せた。キルアは再び目を閉じる。あたたかな体温。ふりそそぐ光。指と指を絡める。ゆっくりと意識を手放していく。
耳の片隅では小川のせせらぎが、静かにたゆまなく流れている。




静かな日々の階段を/配布元:BALDWIN