模試の結果を返された教室は、悲鳴やら歓喜やらでにぎやかしい。亘が自分の席 で成績表をながめていると、前の席のクラスメイトが振り返って話しかけてきた 。

「なあ三谷、どうだった、今回」
「んー、まあまあ?」
「うわ、一番信用ならないんだよ、その台詞」

亘は笑ってごまかした。志望校はC判定。良くも無いが、悪くも無い。それでも 前の模試よりワンランク上がったので嬉しいのも本当だった。
オレちっとも上がんねえ、という言葉には、まだまだこれからだよ、と無難な答 えを返しておく。クラスメイトは曖昧に頷いたあと、ちょい、と手まねきをした 。何事かと亘が顔を寄せると、彼は声をひそめて話し出した。

「それより知ってるか」
「なにが」
「芦川の奴、留学するらしいぜ」
「え!」
「馬鹿、声大きい」

慌ててごめん、と謝る。どこで知ったの、と尋ねると、昨日先生たちが職員室で 話してるの聞いちゃったんだよ、と彼は言った。

「卒業したらドイツ行くんだってさ」
「……へえ」
「天才は見てるもんが違うよなー」

亘は芦川に目をやった。芦川は窓側の一番前の席で、亘の席からはその横顔がよ く見えた。芦川は成績表なんてとっくにしまっていて、英語の勉強をしているよ うだった。
芦川には特別仲の良い友人はいない。少なくとも亘にはそう見える。嫌われるタ イプではないけれど、周囲がどこか話しかけるのに気がひけてしまうような存在 だった。
亘は芦川と3年間同じクラスだった。しかも小学校のとき、少しの間、ほんの少 しの間だけれど、同じ小学校で、同じ塾に通っていた。
高1の時に同じクラスになって、芦川の顔と名前が一致した途端に、突然思い出 したのだ。ほとんど接点がなかったはずなのに、自分でも不思議だった。
初めて芦川と会話した時にそのことを話すと、芦川は覚えていないと言った。当 然だ。
けれど一瞬、ほんの一瞬、芦川の顔が泣きそうに歪んだ。亘が瞬きしたあとには いつものクールな表情に戻っていたけれど、その泣きそうな表情は亘の奥底にし っかりと刻まれた。
それから何となく、いつも一緒にいるわけではないけれど、ぽつぽつ会話をして 、帰りに会ったら一緒に帰るくらいの仲にはなった。

(芦川、留学するんだ)

親友というほどではなかったけれど、亘はそれなりに芦川のことを好きだったし 、淋しくは思った。また今度ちゃんと訊いてみよう、ああでも明日から冬休みだ 。そんなことを考えながら、亘は芦川の白い端正な横顔を見つめていた。


帰り道、学校近くの小さな公園で、亘は木にもたれて本を読んでいる人影を見つ けた。亘がその方向に足を踏み出すと、向こうも気付いたらしく本を閉じて軽く 右手をあげた。芦川だった。

「一緒に帰ろうぜ」
「うん」

不思議なことに、亘が芦川と帰りたいと思っているとき、芦川は大抵こんな風に 亘を待っているのだった。待ち合わせをしたこともないのに。こいつ心でも読め るのかな、と半ば本気で思ったこともある。
一緒に帰るのは久しぶりだった。寒い日だった。芦川の隣に立つと何か違和感を 覚えて、亘は考える前に口に出していた。

「あれ、芦川ちぢんだ?」
「……あほか。お前が伸びたんだ。この万年成長期め」
「そっか。小さい頃は同じ位だったのにね」

言葉にしてから亘は内心首を傾げた。あれ、背を比べたことなんてあったっけ。 小学校のときはろくに喋ったこともなかったのに。芦川は亘の疑問には気付かな いようで、少しつまらなそうに隣を歩いている。
亘は声に出さずに笑った。芦川はこれで結構子どもっぽいところがある。3年間 で亘が見つけたことだ。

「そうだ芦川」
「何ですか三谷さん」
「機嫌直してよ。ねえ、留学するってホント?」

芦川は亘の質問が予想外だったようで、ちょっと目を大きくして亘を見た。亘は 慌てて弁解する。たまたま友達から聞いて、と言ってから、余計質が悪いんじゃ ないかと思い口をつぐんだ。芦川はそんな亘の様子にちょっと笑ってから言った 。

「別に良いよ、隠そうとしてたわけじゃない。言う必要がなかったから言わなか っただけだ」
「やっぱりホントなんだ」
「ああ、日本にいる意味も特にないし」

その言葉の真意は亘にはよく分からなかった。わざわざレベルの低い日本の大学 にしがみついている意味はない、という意味だろうかと勝手に考えた。実際に本 人の口から話を聞くことで、留学という、亘にとって今まで絵空事のように感じ ていた言葉が、急に現実味をもった。

「さみしくなるね」
「そうでもないだろ」
「なにその言い方」
「いない奴のことなんかすぐに忘れるよ。家族でもあるまいし」
「忘れないよ、僕は絶対。メールもする」
「人は簡単に忘れてしまえるんだよ、三谷」

それは皮肉でも悲壮でもなく、ただ淡々と事実を述べているだけだった。亘は何 も言えなかった。その横顔がさみしさなんてみじんも見せずに、ただ前だけを見 つめていたから。
冬の風が木々を揺らし、身体を突き刺す。
そのまましばらく黙々と歩いていると、芦川が口を開いた。

「なあ三谷」
「……なに?」
「お前、今、幸せか」
「なにさ突然」
「いいから。なあ、幸せか?」

亘を見上げるその目はどこまでも真剣だった。亘はちゃかすこともできなくて、 ただその目に応えよう、と思って立ち止まる。芦川が亘の一歩先で振り返る。髪 が風になびく。その色素の薄い瞳を見つめながら、亘はゆっくりと言葉をつむい だ。

「今はまだ分からないけど」
「うん」
「いつかきっと、幸せだったなあ、って振り返ると思う。平凡な学校生活とか、 芦川と帰った帰り道とかを」
「……そっか」
「芦川は今、幸せ?」

芦川は答えなかった。吹き付ける風に、ただ寒いな、とだけ呟いて、両手を制服 のポケットにしまった。
亘は一歩先のその背中に声をかける。

「ねえ、何か欲しいものある?」
「なんで」
「餞別。留学の」
「いらないよ、そんなの」
「僕があげたいんだ」
「そっか?そうだな、」

踏切の前まで来ていた。線路脇のプラタナスから、大きな枯れ葉が落ちて踏切に 散らばっていた。芦川はまるで小学生のように、点々と落ちているそれらを踏み ながら歩いた。くしゃり、くしゃり。また距離が開く。
踏切の真ん中に立って、芦川は振り返った。
夕日に照らされたその姿を、うつくしい、と。

「……じゃあ、ワタル」

その声は冬の空気によく通った。

「名前を、呼んで」


カンカンカン、とベルがなって、踏切のバーが降りてくる。芦川はさっさと向こ う側に渡ってしまった。亘は間に合わずにこちらに残されたままだ。
名前。芦川の名前。もちろんちゃんと知っている。3年間同じクラスだったのだ から。
芦川が踏切の向こうから、亘を見ている。

「――ミツル?」

声に出すと、カタリ、と何かが亘の頭の中で動き出した。
カンカンカンカン、とけたたましくなる音。その音に急かされるように、何かが どんどん押し寄せてくる。何だろう、何か大切なことを忘れている。カンカンカ ンカン。そう、これは、これは、これは――――
――カチリ、と頭の中ですべてのピースがはまったとき、亘は大声で叫んでいた 。


「ミツル!!」


その瞬間、大きな音をたてて電車が二人の間を横切った。

ゴウゴウと響くその音と共に、長い間押し込められていた記憶が一気に溢れでて くる。ヴィジョン。そう、ヴィジョンに僕はいた。
要の御扉。運命の塔。キ・キーマ。ミーナ。真実の鏡。退魔の剣。闇の宝玉。魔 族。たくさんの人たちとの出会い、そして別れ。喜び、悲しみ、憎しみ。運命の 女神。

そして、この腕の中で消えていく、ミツル。

一気に押し寄せた記憶はしかし、反対列車が走り去る音と共に急速に消え去ろう としていた。
駄目だ、せっかく思い出したのに!やっと、やっとミツルのことを取り戻したの に!
もう一人にはさせたくない。あんな悲しい思いはしたくない。させたくない。ミ ツル、ミツル、ミツル!
ゴウゴウと過ぎる電車の音。亘の頭の中で二つの力がぶつかってはじけて、真っ 白になって、





気付くと踏切のバーはすっかり上がっていた。亘は踏切の前でぼんやりと立ち尽 くしていた。静かな道路を猫が1匹ゆったりと横切っていった。

(あれ、)
(僕は何をしていたんだっけ)

踏切の向こう側では芦川が、――そう、芦川が、怪訝そうにこっちを見ていた。

「おい、三谷?はやく行こうぜ」

その声にはっとして歩きだす。何だか頭が変な感じだった。徹夜して大量に英単 語をつめこんだときの感覚に似ていた。もう少しで手が届くのに、決してそれは 思い出せない。

「ねえ、芦川」
「餞別さ」
「え?」
「やっぱりいいや。もう欲しいものもないし」

そう言って振り返った芦川の顔は、どこか無理しているように見えて、亘は初め て芦川と会話した時のことを思い出した。あのときもこんな風に、泣き出しそう に。どうして。
すると今度は芦川が慌てたように目を瞬いた。

「泣くなよ」
「――え?」

左目にふれると指先が濡れた。芦川は少し息をつくと、亘に向かって手を伸ばし た。頬にふれる。ひやりとした。
この感覚を、この熱を。亘は確かに知っているはずなのに。どうしても思い出せ ないのだ。
亘は恥ずかしさに下を向いた。涙は止めようとしても止まらなかった。ただどう しようもなく悔しかった。

「ホントに、お前って……お人好しだな」

亘は反射的に顔を上げた。芦川は呆れたように笑っていた。
亘の頬にそえられた手が、くしゃりと亘の髪の毛をなぜる。その顔が一瞬、とて も穏やかに微笑んだのを、亘は見た。


「ありがとう」

僕のことを憶えていてくれて。


吹き抜ける風とともに、かわいたくちびるが亘の耳元をかすめていった。

それは一瞬の出来事で、気付けば芦川は亘の何歩も先を歩いていた。早くしろよ 、と急かしながら。

ゆっくりと亘は駆け出した。
悲しい、悔しい、切ない。
振りきれない感情。
けれど、もう自分は前を向くことを覚えたはずだった。どこかで、学んだはずだった。
きっとこれからも忘れてしまう。確かにあった、大切な記憶を、いつの間にか。望まなくたって。それが 自然なんだ。

でも、

せめてこの一瞬は。

頬の涙を風がさらっていく。亘は大声で芦川を呼んだ。
夕焼けの中から、確かに返ってくる声があった。



19.永遠にも似た、このひとときに/配布元:微妙な19のお題